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中道は弱いもの、曲った針金を直に伸ばすには反対側に力を加えるだろう

私はできるだけ公平、公正でありたいと願う。

だが私が公平だと考えるものは、私がこれまで与えられ獲得してきた情報の中での公平でしかない。ありとあらゆる事柄を認知し処理できるだけの脳を私は持ち合わせていない。できるだけ広範に物事を観察しようとしているが、取捨選択という主観が入ることはどうしても免れない。その主観を形成するのもまた、幼き頃から与えられてきた情報によるのである。

何が正義かは人によって違うことは自明である。従って絶対的な正義は存在しない。ある集団の最大公約数的な正義は定義できる。それはその集団の内在的な文化と歴史とで構築され、集団内外からの働きかけによって時間とともに緩やかに、またある場合には激しく、変容していく。その変容の良し悪しは、主観でしか判断できない。たとえ変容により結果として集団が滅んだとしても、それを彼ら自身が望んだのであれば悪と断ずることはできない。

 

たとえばAさんが、所属集団の最大公約数的正義の変容が衰退の方向へ向かっていると考え、さらに私は滅びたくないと考えたとする。Aさんは、周りの人たちの正義を自分の思う正義の方向に沿わせようとする。それが滅びを免れ、幸福に至る道だと考えているからだ。だがAさんは公正でありたいと考える人だった。極端で過激な方向、粗野で下品なやり方を好まなかった。Aさんは穏やかに周囲の人に語りかけた。もっと様々な事柄に目を向け、公正に考えるよう努めてほしい、と。だがほとんどの人々は耳を貸さなかった。他の主張者の声は大きく、その主張はわかりやすかったから。それらの主張は、ある場合には快楽主義的であったり、逆に極端に自制的であったり、平和主義的であったり、または好戦的であったりするのだが、すこし聞いたかぎりではとてももっともらしく、正義であるように思われるのだった。だがAさんにとっては、それらの主張は集団を堕落させる侵略者の言葉だった。

Aさんは志を果たせない。だが集団の未来を思うと、自分の信条を曲げてでも、正義の軌道修正を行わなければならない。間違った方向に転がっているボールをゴールに導くには、逆方向の力を加えなければならない。Aさんの魂は集団に対して罪をおかすことになるが、その穢れは集団の未来の繁栄によって雪がれるだろう。Aさんは、自ら極論を推すことで偏った正義を中道に戻すことにしたのだった。

 

というお話はどうだろうか。

私の感覚では、現在でも安倍総理はさほど右寄りではない。東アジア圏を除く諸外国から有害なナショナリズムと批判されるのは全く筋違いだとすら思う。第一次安倍政権の頃にはもう少し穏当だった気もするが、安倍総理の基本的なスタンスは以前からずっと中道派であり、2013年5月の今でもそれは変わっていないだろう。
日本は以前があまりに自虐的で腰が低すぎたのだ。誰も戦争など望んでいない。だが100%自分の意に沿わなければ文句を言ってくる相手に対して、ほんの少しも刺激しないようにただ謝罪を続けることが対等だと言えるだろうか。

現在の状況を見て、日本がもう少しうまくやれたんじゃないかと思うのは、宣伝の不足という点である。東アジアの国々の徹底した執拗なまでの対外宣伝工作に対して、日本の外交は紳士的に過ぎたのではないか。国内でスパイ防止法が作れなかった事と併せて、平時の情報戦という点では完全に後塵を拝してしまっている。
だがここで自家撞着に陥る。中道派として公正公平に紳士的に行動したいのに、派手な宣伝工作が無ければ押し負けてしまうのか。公正であることは認めてもらえないのか。残念ながら多くの人は自分の知らない情報が存在することを意識しない。ときには学者や政治家でもそうである。中道、中庸、あるいは公正といった類のものは影響力としてとても弱い。純粋で幼気な少女を守るには誰かが汚れなければならないのと同じく、公正であることを貫くためには不公正な人間もまた必要なのだ。これは一つの民主主義の限界である。