日本人って宗教アレルギー多いの?

「宗教信じてる?」 「いいえ」 「じゃあ持ってるお守りハサミで切って」 「できない」 「は?」:特定しますたm9(`・ω・´)

 

2ch系まとめサイトとかを結構読むんだけど、時々まとめられた内容が全く理解できないことがある。大多数のレスの内容が自分の思うことからかけ離れていて、宇宙人の議論を見ているみたい、ってかむしろ自分が宇宙人みたい、って思う。そういう時、その人たちの思考の内容を理解しようとせずにはいられなくなって、2日くらいその記事のコメント欄を見張りながら考え続けることが多い。たいていの場合、大なり小なり新しい発見が得られるものだ。上記のまとめはそういう記事の一つ。

1に上田という人の発言の内容が貼られている。

上田氏東工大で教えている人で、講義の中で宗教を信じていないという学生に対して「ではあなたの持ってるお守りを切り刻んでください」と言う。学生はバチが当たるから切れない、と答える。学生は宗教的な感覚を持っているが、宗教だという自覚はない。

そういう趣旨の発言をしているのだが、これに対して2以下のレスでは上田氏に対する非難が大量に書き込まれている。まとめサイトなので非難ばかりが抽出されていると考えても、その量は尋常じゃない。このスレのまとめ人の意見は、まとめ記事の最後に端的に書かれている。まとめの最後に持ってきたレスは「宗教を信じる≠神様を信じる」、まとめ人の言葉は「日本人は宗教と言うと~を食べちゃいけないとか 厳しい戒律をイメージしちゃうからな 日本人は宗教を信じない 祈りを信じるのである」であり、この趣旨に沿って記事はまとめられたものである。

レスの内容の典型を分類して数を数えあげたいところであるが、時間がかかりすぎるのでやめておく。目についたレスについて記す。

・「お守りを切れと学生に強要するなんて頭おかしい」
これは元記事どころか1の内容すら読んでいない、スレタイだけ見て反応している意見のようだ。こういう罵倒する感じのレスは割と目につく。強要はしてないし、やりこめてもいないようだけど。

・「自分のもの/金を出して買ったもの/誰かから貰った大事なものは切れない」
切れない理由に「バチがあたるから」以外の理由を見つけてきた人たち。かなり多い。教授の持ってきたお守りなら切る、1万円くれるなら切るなどの意見も多数。

・「例え教授の持ってきたお守りでも、なんとなく切るのは嫌だ。でもそれは宗教のためじゃなく、モノを大切にするとかそういう日本の文化・習慣のためだから

・「神は信じている/神を信じるまではないがなにか霊的な存在はあると思う/オカルトやジンクスみたいなのは気になる/八百万的な神の感覚はある。→だけどそれは宗教じゃない
まとめ人の趣旨はここにあたる。そのためかわからないが、この意見が最も多い。この人たちは宗教という言葉を割と狭い意味で使っているようだ。ではこれは言葉の定義の問題なのか。否、どうやらそればかりではないようだ。

・「神道・神を信じること・手を合わせていただきますと言う事も、(広義の)宗教に含まれる」という意見に対し、「神を信じることや道徳観は宗教とは違う。宗教と呼ぶな」という反論
言葉の定義が違うということに対して、半ば怒りを込めて頑なに否定する人たち。ジンクスを気にしたり神を信じたりすることを「宗教」と呼ぶことに大きな抵抗を感じているように見える。

「日本で宗教といえば、通常カルトのことである。日本人の道徳観や神道を宗教と呼ぶべきでない。」
宗教と言えばカルト、多くはないがそうした意見も散見される。私が一番衝撃を受けたのはこの意見だった。十数年前に無差別殺人など数々の事件を起こした新興宗教集団の影響が大きいと分析する人もいた。反論する人も勿論居たが、私は「宗教=カルト」と考える人が少なからず存在すると言うことに驚いた。あるいは昨今のカルトでなくとも、歴史的に宗教は数々の争いの火種となってきた。それは一神教だけではなく仏教もそうであったようだ。

私は、多少なりとも学のある人の間では、「霊的な存在を無自覚に感じているということも広義の宗教に含まれる」というのは常識だと考えていた。だが思えば我が夫も私の汎神論的信仰について述べたときに拒否感を示していた。一緒に暮らして8年目くらいだった。「それは宗教じゃない」と彼は言った。言葉の定義の違いだよ、と返したのだが、彼の嫌悪感は完全には払拭できなかったようだった。

言葉の定義の違いはあるだろうが、それだけではない。「車といえば普通は4輪自動車だけど、文脈によっては車輪がついてて転がって動くものも車というよ」と言われて怒り出す人はあまりいないだろう。まあ仮に、4輪自動車を憎み嫌っていて、かつ自分の自転車をとても大切にしている人がいたら「自転車を車というな!車はスピードが出て大事故を起こすだろう、そんな車と俺の自転車を一緒にするな」とこう言うかもしれない。うん、これはまとめ記事に出てきた意見とよく似ている。

このまとめ記事のスレでレスした人たち、まとめ記事にコメントをつけた多くの人たち、拡大解釈すればわりと大多数の日本人(特にネットに書き込むような若い層)は、「宗教」という言葉そのものに否定的なイメージを抱いているようだ。従って無宗教であることに誇りを感じている。テロや戦争の火種になる「宗教」から距離をおいて、他の宗教には寛容でありつつも自身は無垢な無宗教者であり、神を感じつつ道徳的に生きる日本人であるという自己イメージに誇りを持っている。そういった人物像が伺える。

「宗教」に対し否定的なイメージを持たない私には俄かには理解しがたいことであったが、ここまで書き進めてようやく、論理的にはそういう人物が存在しうるということが納得できた。なぜ彼らや夫は否定的イメージを抱き、私はそうならなかったか、明確な理由は判らないが、私が毎朝毎夜経を唱え、毎日寺に参る祖父母と育ったからかもしれない。多感な時期に某宗教の事件が起こり、大いに関心を持ってニュースを見ていたが、宗教そのものが悪いとは思わなかった。いや、宗教そのものが悪いのかと考えもしたが、それは違うという結論に達した。

周りの人たちに、「宗教に悪いイメージある?それはどうして?」と訊いて回るわけにはいかない。だから私は、他の人たちがそんなに悪いイメージを持っているなんて知らなかったし、その理由もよくわからない。
ただ、元記事にもあるように、少なくとも大学に進んだ人たちは教養を持っておくべきだろうし、そのためには自分を知らないといけなくて、その時に宗教は避けては通れないだろうと思う。大学のカルト勧誘を避けるためにも、「宗教からは逃げろ」ではなく、「自分の宗教観を自覚しろ」と言わなければならないし、その方が効果あるんじゃないかな、長い目で見ると。

まとめ記事の議論は、1の元記事(対談)の内容とはだいぶかけ離れたものとなっていた。「ふつう宗教を信じているといえば、入信したり洗礼を受けたりしているものを指す、宗教を信じてないと言った学生にお守りが切れないからと遣り込めるのは指導方法としておかしい」という意見もあった。だが、このまとめ記事の反応を見るに、若い学生に対して「あなたも宗教的感覚を持っているのですよ」と自覚させるには、少々インプレッシブな方法を用いるのが良いのだろう。